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★ 署の沿革 |
★ 管内のあらまし |
緑警察署の管轄区域であった横浜市緑区北部地域は、昭和40年代から東急田園都市線を中心とする都市化が著しく、人口や事件事故が急増した。そこで、緑区役所北部支所管内を管轄する警察署の新設を進めた結果、昭和63年4月1日、緑警察署管内を二分割し、その北部を管轄する緑北警察署が新設されました。
その後、平成6年1月6日、横浜市の行政区画再編成に伴い青葉区が誕生したことにより、署名も緑北警察署から青葉警察署と改称し、青葉区を管轄地域としました。
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青葉区は、横浜市の北端に位置し、北は川崎市宮前区・麻生区、東は横浜市都筑区に接し、南は横浜市緑区に、西は東京都町田市に、、面積35.06平方キロメートルで、横浜市の8パーセントを占め、人口302,025人(平成21年5月1日現在)で、面積、人口とも横浜市で第2位である。地勢は、なだらかな多摩丘陵の一角で、中央を谷本川が北から南に流れている。
管内には、多くの遺跡があり、土器や石器が多数発掘されている。江戸時代には、大山詣りで賑わう荏田などの宿場を中心に栄えた。
昭和30年代中ごろに至り、産業や経済の発展など社会的な変化を背景に、横浜市北部郊外で東京に近いという立地条件が行政機関をはじめ大手企業等の着目するところとなった。
同41年には、東急田園都市線が長津田駅まで延伸されるなど、恵まれた交通環境が整うに及び、これらの沿線各駅を核とした大規模都市開発事業が官民により集中して行われ、横浜市内有数の、いわゆる田園都市高級住宅街として時代の脚光を浴びた。
その後も随所に大規模な開発事業が行われ、現在も更に大きな変貌を遂げつつある。 このページのトップへ
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★ 青葉自慢 |
○ 一世帯当りの年間収入横浜市1位
青葉区 765万円
(平成26年全国消費実態調査)
世帯年収1,000万円超の割合全国平均12%とされる中、青葉区は全国平均23%と約2倍という高額年収世帯の区です。
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○ 平均寿命日本一 青葉区
男性 83.3歳
(厚生労働省平成27年市町村別男性第1位)
女性 88.5歳
(同省同年市区町村別 女性第9位)
長寿の理由は、常に健康づくりや食生活を意識している人が多いからとのことです。 このページのトップへ
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★ 名所・旧跡 |
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★ 多摩田園都市(ニュータウン)
多摩田園都市とは、東急グループにより開発された、民間事業としては、日本最大規模(開発面積約50平方キロメートル、山下公園約700個分)のニュータウンでです。 鉄道新線(東急田園都市線)の建設と完全一体化した形で都市開発が行われ、土地区画整理事業を東京急行電鉄が一括代行して街づくりが行われました。 たまプラーザ、あざみ野、青葉台をモデルタウンとして閑静な住宅街が広がっています。
昭和41年の「溝口〜長津田」の開通に始まり、平成10年代には、人口、56万人となり当時の日本のニュータウンとしては、最大規模でした。
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☆ 鶴見川サイクリングロード 流域が動物のバクの形をしているという「鶴見川」は、東京都町田市から横浜市鶴見区まで、全長42.5キロメートル、流域面積235平方キロメートルの一級河川で、市街地の自然を守る役目を担っています。
この鶴見川沿いを、鉄町の常盤橋を起点に市ヶ尾町の天神橋まで、6つの橋と1つのトンネルをくぐる約4.5キロメートル、さらに港北区の亀甲橋へと続く全長11.8キロメートルの道は、フラットで快適なサイクリングロードとして整備されており、車道等を横切らずノンストップで走ることができます。 このページのトップへ |
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★ TBS緑山スタジオ・シティ
(緑山2100番地)
株式会社緑山スタジオ・シティは、緑山の8万坪の広大な敷地の中にあり、最新鋭のハイビジョン設備を備えたテレビスタジオで、様々なシチュエーションに対応できるロケーション設備を備えている。
人気番組「SASUKE」は、ここで収録されています。
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☆ 「田園の憂鬱由縁の地」記念碑
(鉄町1101番地)
「田園の憂鬱」は、詩人であり小説家である佐藤春夫(明治25年〜昭和39年)の代表作。彼は、大正5年から9年まで内縁の妻と2匹の犬と1匹の猫を連れて当時の都筑郡中里村鉄(現在の青葉区鉄町)に住み、この作品を書き上げた。当時の青葉警察署周辺の状況を作品では、
「〜小さな丘は、目のとどくかぎり、ここにもそこにも起伏して、それが形作るつまらぬ風景の間を縫うて、一筋の平坦な街道が東から西へ、また別の街道が北から南へ通じているあたりに、その道に沿うて、一つの草深い農村があり、幾つかの卑下(へりくだ)った草屋根があった。それはTとYとHとの大きな都市をすぐ六七里の隣にして、譬(たと)えば三つの劇(はげ)しい旋風(つむじかぜ)の境目(さかいめ)に出来た真空のように、世紀からは置きっ放しにされ、世界からは忘れられ、文明からは押し流されて、しょんぼりとおかれているのであった。」
※ 東から西への街道:大山街道(現在の246号線)
※ 北から南への街道:現在の県道横浜上麻生線
※ Т:東京、Y:横浜、H:八王子
と描写されています。
現在、その住居跡に石碑が建てられているが、碑は作品の中で「この村唯一の女学生」として登場する女性が昭和57年に建てたものです。 |
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★ こどもの国(奈良町700)
「こどもの国」は、横浜市青葉区と東京都町田市にまたがる多摩丘陵の約100万平方メートル(横浜スタジアム38個分)の広さの児童厚生施設です。
建設の経緯は、昭和34年4月、皇太子殿下(現天皇陛下)のご成婚を記念して、全国から寄せられた祝金約30億円を基金に建設され、1965年5月5日のこどもの日に開園した。元は、旧日本陸軍の弾薬製造、貯蔵施設である「東京陸軍兵器補給廠田奈部隊田奈填薬所」跡で、国、民間企業、団体及び個人の協力で整備されました。
園内の入り口ゲート付近には、かつて引込み線が延び、弾薬の積み下ろしのための駅があり、1945年2月7日、引込み線プラットホームで棒地雷の積み込み作業中、学徒動員の女学生等6名が爆発事故で亡くなったことから、平成8年3月に学徒動員された女学生等によって「平和の碑」が建立された。園内は、多摩丘陵の雑木林を生かし、遊具広場、芝生広場、ミニSL、ローラー滑り台、サイクリングコースがあり、湖ではボートやドラム缶いかだで遊べます。 牧場には乳牛、ヒツジが放牧され、ポニー乗馬やウサギと触れ合える「こども動物園」もあり、このほか、運動会用グラウンドやバーベキュー設備、屋外プール、スケート場など、あらゆる設備を持ち、四季を通じて利用されています。
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☆ 真福寺(荏田432−7)
荏田は「お江戸日本橋を朝発ちで、夕方たどり着くのが荏田の宿」と言われ、行程七里の宿場でした。
寛政元年(1789年)造立の真福寺堂内には、千手観音像や清涼寺式釈迦如来立像が安置されている。この釈迦如来立像は、高さ1.6メートルの寄木造り、平安時代から鎌倉時代のものといわれ、昭和8年に国宝に指定され、現在は国の重要文化財となっています。
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★ 医薬神社(柿の木台28−2)
医薬神社は、安土桃山時代の建立と伝えられる医王山薬師院東光寺が、明治時代の神仏分離令により神社となったもので、神社の南側に寺の名残りの墓地が見らます。
祭神である大国主神と少名毘古那神は、手を携えて国造りをされたと古事記に記されています。
二神はいずれも病気を治す神様で、大国主神が助けた因幡の素兎(しろうさぎ)神話はよく知られている。また、少名毘古那神は、大国主神の病気を治そうと、速見(別府温泉)の湯を道後温泉まで海底の地下をつないで引き込み、回復させたと伊予風土記に記されています。
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☆ 鐵神社(鉄町1553)
鐵(くろがね)神社は、天文年間(1532年〜1554年)に創建と伝えられています。
イザナギノミコト、イソタケルノミコト、スサノオノミコトを合祀し、明治になって、上、中、下鉄村の3つの村が合併して鉄村となり「鐵神社」と呼称するようになった。その後、昭和48年に学業の神「天満宮」も本殿に合祀されました。
例祭は毎年10月の第一日曜日です。 このページのトップへ
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★ 甲神社(鴨志田296−1)
甲(かぶと)神社の祭神は、日本武尊。創立時代は不詳であるが、戦国時代と伝えられています。
御神体は、長さ約55センチメートルの石棒だが、この地域を一時支配していた鴨志田一族が鎧かぶとをここに捨てたことから「カブトジンジャ」と呼ばれたとの説がある。武士の崇拝が篤かったためだろうと考えられています。 このページのトップへ
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☆ 保木薬師堂
(美しが丘西2−7−2)
この堂の本尊の薬師如来坐像は、承久3年(1221年)、鎌倉時代に造立された古仏です。
薬師は病を癒し、災いを除くなど12の大願を立て成就した後、如来になったといわれています。
毎年、9月12日に里帰りして護摩法要が行われます。 このページのトップへ |
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★ 寺家ふるさと村(寺家町一帯)
寺家ふるさと村は、里山と入り組んだ谷戸田が美しい田園景観を創り出し、春は桜と新緑、夏は水田の緑の絨毯、秋は黄金色の稲穂と紅葉、そして冬は木枯らしと、四季折々の変化を楽しめます。 このページのトップへ |
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☆ 熊野神社(寺家ふるさと村内)
熊野神社は和歌山県熊野本宮がはじまりで、寺家の神社の社殿も本宮の方向に建てられている。境内には「かながわの銘木100」に選ばれたモミの大木がある。
祭神は、日本国土及び地上の森羅万象を徴する神々を生んだとされる夫婦神「イザナギノミコト、イザナミノミコト」と、この夫婦神の子で太陽を象徴する神であり伊勢神宮の祭神である「天照大神(別名・オオヒルメノミコト)」である。
鎌倉時代前半、武蔵相模の御家人は北條氏によって滅ぼされた。最後まで権勢を張っていた安達一族の大曽根氏が寺家を新たに領有することになった際、師岡(港北区)にあった熊野神社を分社して鎮守にしたと伝えられている。このページのトップへ |
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★ 剣神社 荏田町にある剣神社前の道は鎌倉道と呼ばれ、昔から重要な街道であった。ここを奥州(現在の青森県地方)の商人が炭を鎌倉の刀鍛冶に納めていた。良質の炭であったため刀鍛冶がお礼に剣を一振り商人に与えたところ、喜んで懐深くしまった。荏田宿にさしかかったところ、道の傍らに泉が湧いているのを見つけた商人は、腰を降ろしその水を飲むと、不思議なことにその水は、酒で商人は、酔いつぶれてしまった。しかし、それは、大蛇の罠で木の上から見ていた大蛇が商人を飲み込もうとした瞬間、懐の刀が突然大蛇に襲いかかりこれを退治してしまった。これに感謝した商人がここに祠を建て、末長く祭ったのが現在の剣神社だということです。 |
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☆ 寺家町 牛のわらじ
肥料の不足した戦中戦後、寺家方面の農家は牛に車を引かせて横浜の中心部(神奈川区・西区・中区)まで下肥を汲み取りに1か月に3〜4回通っていました。
当時の道路は砂利道ばかりで、牛は爪が痛くて歩くのが遅かったそうです。そこで農家は牛にわらじを履かせると、爪が痛くないのでせっせと歩いたそうです。牛の爪は二つに分かれているので、わらじを履かせるには都合が良く外れにくかったとのことです。ところが牛は体重が重いのでわらじの破損が激しく、約10キロ歩くごとにわらじを交換しなければならなかったのです。さらに牛の一足はわらじ4個なので、一往復するたびに12個のわらじが必要だったのです。
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