The Isehara Police Station
 伊勢原警察署
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勇敢な警察官
神奈川県殉職警察職員第一号の祝井盛武巡査
 明治10年11月19日夜更け、伊勢原分署(現在の伊勢原警察署)の表戸をけたたましく叩く音から始まります。
※明治10年は、西郷隆盛が西南戦争に敗れ自刃した年で、明治政府の基盤はまだ確立しておらず、世の中は不穏の空気がみなぎっていました。
 現在の高部屋村上粕屋地区(神奈川県伊勢原市上粕屋)にあった、旅籠屋(旅館)から届出人が飛び込んできて、「下宿していた50歳の男が、旅籠屋の娘に恋をし、求婚を申し込んだが断られたため、旅籠屋に立てこもっている」との、届出を受けました。
 届出人の案内により、当時拝命を受けたばかりの新人警察官と、堅忍不抜の性質と精勤が認められ三等巡査に昇任し、二ヶ月前に赴任した、祝井盛武巡査が現場に駆けつけました。
 祝井巡査は、男の説得を試みるも、逆上した男は日本刀を持ち出し、祝井巡査に向かい正眼に構え暴れだしたのです。しかし、逡巡することなく男の手元に飛び込み、激しくもみあい、一瞬手が離れた時、凶刃が祝井巡査の左胸に深く食い込み、急所の重傷をおったものの、不屈の闘志を持って日本刀をもぎ取りました。
 その後、男を組み伏せたのですが、男は懐に隠し持っていた短刀で、祝井巡査の腹部を突き上げ、二ヶ所の重傷負わされましたが、祝井巡査はなおも捕縛の手をゆるめなかったところ、男はさらに祝井巡査の手や足を数ヶ所突き刺し、ひるんだ隙に屋外に逃走しました。
 祝井巡査は、逃げていく男を追って屋外に出ましたが、二ヶ所の深傷と数ヶ所の手傷に自由を失い、2歩から3歩あゆんだ後倒れ再び起つことはありませんでした。
 男は数日後、厚木において逮捕されました。
※昭和60年12月18日発行「伊勢原警察署のあゆみ」から抜粋
写真:祝井巡査の慰霊塔
祝井巡査の慰霊塔

佐藤巡査大山町民を救う
 大正12年9月1日午前11時58分45秒、その規模は震度6、昼食時を襲った地震が関東大震災です。
 この大地震で、大山町(現在の伊勢原市大山)のいたるところの地盤がゆるみ、特に大山山腹の山肌には各所に無数の地割れができて、ひとたび豪雨があれば、無数の地割れから雨水が浸透して山崩れを起こし、大山町は一度に流失されそうな状況にありました。
 当時の大山駐在所(第16代勤務員)佐藤巡査は、この状況を把握し、町民に避難準備を警告するとともに、万全の警戒態勢をとっていた。
 佐藤巡査の危惧は現実のものとなり、大正12年9月15日の午前中から豪雨が来襲し、夜になって更に勢いを増し、地割れ口は大水を呑み、夜に入ると各所に山崩れが出来はじめ、大木、岩石が谷間に積まれて堰をなすようになりました。
 佐藤巡査が一本道を偵察に行き、人家の終点に着いてみると、濁流の勢いは予想以上の激しさで、山津波の危険は刻一刻と迫っていることが予想されたため、大声で連呼しつつ町全員の避難を命じ、最後の避難者とともに急ぎ町を下り、駐在所まで約100メートルの地点まできたこの時、大山の中腹より異様凄惨な山鳴りとともに、山津波が来襲し、大鳴動とともに大山町の人家の大半は押し流されてしまいました。
(※時に大正12年9月16日午前0時20分ころの出来事です)
 一瞬にして65戸75棟が流失、16戸が半壊し、町はあたかも大河原と化しましたが、幸いにも町民は、佐藤巡査の避難命令により、その殆どが立退き、僅か1名の町民が死亡したのみで他は全員無事だったそうです。
※昭和60年12月18日発行「伊勢原警察署のあゆみ」から抜粋
大山山津波の被害の様子 その1
大山山津波の被害の様子 その1
大山山津波の被害の様子 その2
大山山津波の被害の様子 その2
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