The Isehara Police Station |
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旧庁舎 |
捕亡屯所の設置
伊勢原警察署は、明治3年12月伊勢原村に捕亡屯所が設立されたことにはじまる。
当時、明治新政府は、維新後の混乱を背景として警察制度の改革に着手し、近代警察の礎となる改革を着々と進めていった。
捕亡制度は、このような改革の一環として設けられたものであり、刑部省の管轄のもとに犯罪捜査、犯人の逮捕、押送などの司法警察にあたることを主任務とした。
この捕亡制度が、伊勢原村を管轄する小田原藩に創設されたのは、明治2年7月であり、伊勢原村捕亡屯所は翌3年12月に設置され、藩内においては他の地域に先がけて設置された。
明治4年7月、廃藩置県により小田原藩は小田原県と名称がかわり、同年11月には、小田原県、萩野山中県、韮山県の三県を合併して足柄県となった。
明治8年3月7日、捕亡の呼称を羅卒に改め、全国的な羅卒制度が発足した。
このように、捕亡は、全国的な羅卒制度が確立するまでの間、維新後の混乱する世相の中で司法警察の仕事を担当し、治安の維持に貢献した。
その後、明治8年10月邏卒は巡査と改称され、同年12月16日、伊勢原村捕亡屯所は大住郡伊勢原巡査出張所に改められ、おおむね3人の巡査が常駐した。
小田原警察署伊勢原分署に改称
明治政府は、あいつぐ士族反乱などによる治安情勢を憂慮し、明治10年1月26日、警察力拡充と警察組織の整備を図るため、内務省通達を発して一斉に警察署、分署の設置を進めた。
伊勢原分署は、この通達に基づいて小田原警察署の分署に改称したものである。
ちなみに、この通達に基づいて神奈川県は11警察署を設置し、小田原警察署管内の分署は、伊勢原分署をはじめ平塚、大磯、松田惣領、箱根、関本、曽屋、吉浜の8分署を数えた。
伊勢原分署は、大住郡の53町村を管轄し、警察官の定員は6人であった。
伊勢原警察署と改称
明治20年1月一群区一署主義が実施されたことに伴い、全国的に警察署の整備が進められ、伊勢原分署は大住郡警察署と改称されて大住郡一帯を管轄することになった。
明治21年10月、内務省訓令により、警察署及び分署はその管轄町村をいくつかの区に分けて一人の巡査を駐在させることになった。
これを受けて、大住郡警察署においても駐在所の新設等管轄区域の整備が行なわれた。
明治22年ころまでは、管内を三分割し、直轄、曽屋分署、平塚巡査出張所と区別していたが、明治22年に至り、平塚巡査出張所は廃止し本署の直轄とした。また、曽屋分署内の土沢村を分割して本署の直轄とした。
駐在所の新設については、明治22年の市町村制により生まれた町村を単位に整備が進められた。
本署直轄では、平塚、須賀、四の宮、戸田、下谷、豊田本郷、大畑、廣川、土屋、神戸、子易、板戸、下糟屋の各村に巡査駐在所を置いた。
曽屋分署管内では、東田原、菩堤、渋沢、尾尻、南矢名の各村に巡査駐在所を置いた。
明治26年11月の警察区画改正により大磯警察署伊勢原分署と改め、大正15年7月の分署廃止令により伊勢原警察署と改称した。
その後、昭和23年3月の警察制度改革により、神奈川中東地区警察署と改称、同時に伊勢原町警察署が設置されたが、昭和26年10月、廃止されて中東地区警察署に編入され、伊勢原地区警察署に改称した。
昭和29年7月、新警察法が制定され、神奈川県警察の発足と同時に神奈川県伊勢原警察署と改称し、昭和44年4月に、現在地に庁舎が落成して移転したが庁舎狭隘のため、昭和59年12月、増改築を行い、現在に至っている。 |
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現庁舎 |
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伊勢原市は、神奈川県のほぼ中央に位置し、東は厚木市、西は秦野市、南は平塚市に接し、西北は険しい地形の丹沢山塊の一角を占める大山を山頂として東南に丘陵が広がり、東は平野が開けている。
大山は、関八州の守護神として古来から尊崇され、「大山参り」で伊勢原は門前町としてにぎわいを呈し、古い歴史と文化の数々が残されている。
市内を小田急線が横断し、これに平行して国道246号、東名高速道路、小田原厚木道路が走り、交通の便も良いことから観光地として発展している。 |
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所在地・連絡先 |
〒259−1142
住所 : 神奈川県伊勢原市田中819番地
電話 : 0463−94−0110 |
アクセス方法 |
徒歩の場合
小田急線伊勢原駅から徒歩20分 バスの場合 伊勢原駅北口神奈川中央バス 2番線愛甲石田駅行き 伊勢原警察署前バス停下車 |
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