もう一度会いたい・交通事故被害者遺族の手記


イラスト:花

この手記は、被害者支援都民センター(被害者支援都民センター自助グループ)が発行した小冊子「もう一度会いたい(遺族の手記)」に掲載されていたものを、許可を得て掲載したものです。

これを複製、改変、転載することを禁止します。

手記は、原文のまま掲載しました。




「会いたい」  渡辺理香

「上のお子さんは男の子ですよね。いまさら性別は変えられないからなぁ。順調ですよ。」
六ヶ月を過ぎた妊婦検診で、突然言われたこの言葉で私は、お腹の子供が男の子であると思い込んだのです。次の検診の際念のため別の医師に確認しましたが、同じような答えが帰ってきたのです。家に帰り主人に伝えたところ、心なしかがっかりしている様子でした。

平成二年三月三日、朝から軽い陣痛がはじまりました。「雛の節句に男の子か…」と、少し複雑な気持ちで病院の検診を受けました。上の子を出産する時には、二日間陣痛で苦しんだ経験がありましたので、いったん家に戻りのんびりと構えていたのです。ところがお昼を過ぎる頃になりますと、座って居る事もできないほどの強い痛みが襲ってきたのです。そしてその日の午後四時二十三分、私は無事に二人目の子供を出産したのです。「女のお子さんですよ。」「えっ!男の子だと言われていたんですけど本当ですか?」分娩室で女の子だと解った瞬間は大変驚きました。そして、抱き締めると壊れてしまいそうな娘を初めて胸に抱いた時の、喜びと感激を私はいまも忘れることはできないのです。

出生時の体重は三,三〇〇グラムもありましたが、その後の母乳の飲みが悪く、大変心配しました。そしてそんな娘、祥子を主人は、まるでガラス細工でも扱うかのように毎日お風呂に入れてくれたのです。赤ちゃんの時は、よく高い熱を出して心配しました。しかし三歳を過ぎる頃になると元気で活発な子に成長してくれたのです。

祥子はおもちゃなどはあまりほしがらす、綺麗な箱やおりがみを集めるのが好きでした。その紙でブレスレットやネックレスなどを作っては、「お母さんにプレゼントだよ。」と、よく私のエプロンにセロハンテープで飾りつけてくれたのです。そして、小学校に入る年、初売りで一緒に選んだ机に座り、小学校に行く日をとても楽しみにしていました。学校までは大人の足でも二十分ほどかかり、国道沿いを歩くため交通量も多く心配でしたので、入学する前に学校までの通学路を何度か歩き、危険な場所や横断歩道の渡り方を練習しました。自分の足で歩き、初めて小学校の校門をくぐった時の、なんともいえない嬉しそうな祥子の顔が、今も目に焼き付いているのです。六歳の誕生日を迎え小学校に入る頃になっても、体は小さいままでしたが、毎日とても楽しそうに学校へ通っていました。通学路の道端に咲いていたタンポポや踊り子草、白つめ草などの野の草を花束にして毎日のように私にプレゼントしてくれました。そして私がそれを飾るのを嬉しそうに見ているのでした。

イラスト:花

体が小さく痩せていたせいか、体力作りのためにと始めたスイミングスクールからの帰りに、お腹が痛くなり歩くのも大変になることが度々ありました。あまりにも苦しそうなので、「プール辞めようか?」と聞いても、「いいのすぐに治るから」といった答えが帰ってくるのです。学校に入ってまもなくそのスイミングの進級テストにやっと合格し、とても喜んでいました。事故の日はちょうどそのスイミングがある日で、「今日ね、プール習いに行くの」と、嬉しそうにニコニコと先生に手を振り帰っていったそうです。


我が家は以前ブドウ畑だった所に建てたせいか少し小高くなっており、また、広い道路から少し中に入っていることもあり静かで、緩い坂を登り学校から帰ってくる子供たちの様子が、手に取るように解るのです。子供たちの話し声や笑い声、飛び跳ねるように歩く元気な足音、そしてカバンの中で教科書がゆれる音まで、家の中に居ながらに感じるのです。そんな中でも私は、二階の窓から祥子が花を摘みながら帰って来るのを見ているのが好きでした。私が声をかけると嬉しそうに手を振り息を弾ませ、家の前の坂道を一気に駆けあがって来るのです。赤いランドセルに付けた鈴の音が祥子の動きに合わせるように、だんだん近ずいてきて玄関の戸が勢いよく開き、「ただいま!」の声とともに家に飛び込むように帰って来るのです。

事故が起きた平成八年七月十八日は、夏休みを二日後に控えていました。祥子は生まれてから初めてもらう通知箋をとても楽しみにしており、またその年の夏休みには、かねてから約束していた東京ディズニーランドへの旅行、毎年恒例となっていた湯の浜への海水浴と、楽しい計画がたくさんあったのです。朝食の時、なかなか食事の進まない祥子を弟の弘基と競争させるようにしてたべさせました。「食事後に美味しいものをあげるからね。」と言う私の言葉がきいたのか、祥子は頑張って食べました。私が用意していたのは手作りのゼリーでした。これなら喉越しもいいし、歯にも残らないと思ったのです。しかしめったにだだをこねない祥子が、その時に限って「ゼリーじゃなくてアイスがいい」というのです。「歯も磨いたしアイスは帰ってきてからね。」私はそう言い祥子の声を無視し、ゼリーを祥子の口に入れ、支度を急がせました。いつもは交通量の多い道を渡りおえる所まで、下の弟の手を引き見送りにいくのが私の日課でした。しかし私はこの些細な言い争いのせいでこの日に限って、祥子の顔もよく見ずに送り出してしまったのです。「雨降るといけないから傘持って行ってね。」「は〜い、行ってきます。」それでも元気な声が、玄関のほうから帰ってきました。

その日は、朝は涼しかったものの子供たちが帰って来る昼過ぎには夏を思わせる天候になっていました。私は家でいつもより帰りの遅い子供たちの帰りを、いまかいまかと待っていました。確か午後の一時過ぎ頃だったと思います。自宅の電話のベルがなりました。聞き覚えのない女性の声で「祥子ちゃんが事故に遭いました。頭を強く打ったみたいです。すぐに来て下さい。」確かそんな内容だったと思います。一瞬なにを言われているのか解りませんでした。しかしその電話のむこうから、聞き覚えのある上の子峻の泣き叫ぶ声が聞こえてきたのです。私は頭がガンガンしてなにも考えられなくなりました。怪我をしていると悪いと思い保険証だけをなんとか探し出し、教えられた事故現場へと急いだのです。自分の車で向かったのですが、途中で事故の為か車が進まなくなり、道路脇に乗り捨てるようにして走りました。途中で祥子の同級生の何人かと会いましたが、その子供たちが泣きながら擦れ違って行くのを見た時、私はただならぬものを感じたのです。

イラスト:花

やっとの思いで事故現場に着いたものの、祥子はすでに救急車で運ばれた後でした。私がどうすればいいかわからないでウロウロしていると、学校の先生が側に来て「今どこの病院に運ばれたか調べています。ここに座って待っていて下さい。」と言われ、近くの石の上に腰を下ろしたのです。まもなく峻が先生に連れられてきたのですが、しかしその峻のTシャツを見て驚きました。血で真っ赤だったからです。どこか怪我をしたのではないかと思い調べてみましたが、どこにもそんな傷はありませんでした。まもなく運ばれたさきが県立救命救急センターであることが解り、先生の車で峻と一緒に駆け付けました。「どうか無事でいて!」そう祈ることしかできませんでした。急いで行ったものの、病院に着いてもなかなか祥子に会う事が叶いませんでした。また事故の状況についても「車が急に突っ込んできた。」という事だけで、それ以上のことはなにも解りませんでした。待合室に警察官が来ていましたので事故について聞いてみましたが、「詳しい事は解らない。」との返事が帰ってきただけでした。事故の状況も祥子の怪我の状態もなにも解らないまま、ただひたすら座って待つことしかできなかったのです。

そんな中、私はだんだんうまく呼吸する事ができなくなり、椅子に座っていることも困難な状況になっていきました。ガタガタ震える私の肩を抱いてくれていた、当時まだ小学校三年生だった峻が「お母さん、大丈夫だ、祥子が救急車に乗せられちゃうとき、僕が『祥子!』って呼んだら、祥子『お兄ちゃん』って答えたんだ。だから、絶対大丈夫だ。」そう言ってずうっと支えてくれていたのです。しかし、私たちが病院に着いてしばらくした頃、事故で一緒に巻き込まれて怪我をした子のお母さんが待合室に入っていらして、すぐに処置室に通されその後またすぐに安心した顔で戻っていらしたのをみた時、これはおかしいと思いました。私は胸が張り裂けそうな思いに耐えきれなくなり、会わせてほしいと訴えました。しかし、その時には私はもう足がしびれ、感覚がなくなり、歩けるような状態ではなくなっていたのです。看護婦さんがいらして私は抱きかかえられるようにして祥子の待つ部屋に向かったのです。しかし、通された部屋で目に入ってきたものは、私の思いなどはるかに越える想像を絶する状況だったのです。そこには、峻と私の必死の願いを打ち砕く光景が、待ち構えていたのです。


ここからの私の記憶はとても鮮明な部分と、霧がかかっている様な部分があります。それは、自分の心の奥底深くに永遠に閉じ込めておきたい光景なのです。

部屋の隅に置かれたベッドの上に寝かされている子供の姿が、最初に目に飛び込んできました。その子供の体には太いチューブの様なものが幾つかつながっているのです。その子はただ寝ているだけで、全く動かないのです。私はただならぬものを感じそれ以上前に進むことができませんでした。「違う!祥子じゃない!」そう必死で叫びました。それがその時私にできる精一杯のことだったのです。「鎮静剤」医師の声が聞こえました。私は看護婦さんに両脇を抱えられ別の部屋に移されそうになったのです。しかしその時、もしそこに居るのが本当に祥子なら私が側に行かなければ、そう思い何とか這う様にしてベッドの側まで行ったのです。

ベッドにいたのは祥子でした。信じたくありませんでした。私が側に来たことも解らないのです。名前を呼んでもまばたき一つしてくれないのです。「なんとかして!たすけて!心臓でも手でもなんでも私のを使って助けて!」そう、医者に必死に必死に頼みました。しかし、そんな私に、「手は尽くしました。九十九%だめです。」と医者が告げたのです。「いやだ、たすけて!たすけて!」そう繰り返す事しか私にはできませんでした。母親なのになにもしてあげられないのです。目の前に苦しんでいる祥子がいるのに、代わってやる事も、治してやることも、痛みを和らげてやる事も、そして、抱いてやる事さえも叶わないのです。私にできたのは、だんだんと冷たくなっていく祥子の手をさすってあげる事だけだったのです。

主人はその頃新庄の事務所に通っていました。山形市から新庄市までは、車で片道二時間以上かかりました。また新庄は豪雪地域のため、冬は車での通勤に大変な危険を伴いました。しかし、そんな状況の中にあっても主人は、子供達の顔が毎日見たいからという理由で、単身赴任もせずに通っていたのです。その日の朝も祥子にいつもの「いってらっしゃい」のキスをされ、出掛けて行ったのです。娘は本当に主人が大好きでした。その主人の車がちょうど病院の駐車場についた午後三時二十五分、祥子は冷たいベッドのうえで、たった一人で旅立って行ってしまったのです。病室に走りこんで来た主人に看護婦さんが「祥子ちゃん、いままでがんばってお父さんの来るのを待っていたのよ。」と告げました。

私は何が起こっているのか解らなくなっていました。まるでテレビドラマのワンシーンの中に迷い込んでしまったような不思議な感覚に襲われていました。もうすでに冷たくなってきた祥子の手をそれでも必死に擦り続けていた時、看護婦さんに「祥子ちゃんに、新しい服を持って来てあげてねお母さん。」と言われ、『そうだ、早く家に連れて帰ってゆっくり休ませてあげなければ。』そう思い、家に取って返しその夏祥子が着るのをとても楽しみにしていた真っ白なワンピースを持って、病院に駆け付けたのです。祥子は髪を綺麗に結い直してもらい、白のワンピースに着替えさせてもらい、まるで眠っているかのようでした。しかし、私がいつものように祥子を抱いて車に乗せようとしたとき、いつもは吸い付くように私に抱かれてくる祥子の体が、鉛のように重く、石のように堅かったのです。顔を少しでも横にすると、脱脂綿をいっぱいに詰められてしまった口から血が溢れ出し、真っ白なワンピースをみるみる真っ赤に染めて行きました。しかし、そんな状況を目の当たりに見ても、祥子の死など受け入れる事などできませんでした。『早く家に連れて帰り、ゆっくりと休ませてあげなければ』という思いしかなかったのです。

イラスト:花

私は自分で自分がわからなくなりました。祥子が死んでしまったのに、涙が出ないのです。「おかしい、おかしい、なに、何がおこっているの?」そんな叫びが、心の中で大きく渦巻いていました。やらなければならない事は、なんとか流されるように、こなしてはいたものの自分の心が見えないのです。斎場で最後のお別れを祥子にした時のことです、「もう、だっこしてあげられないし、髪も結ってあげられない、ごめんね。ごめんね。」そう私が言うと、プクプクと細かな泡が祥子の口から出てきたのです。そして信じられないかもしれませんが、涙が両方の目から流れ出し祥子の頬を伝ったのです。私はその涙を見た時、祥子をやはりひとりではやれないと思い棺にしがみつき共に逝こうとしました。


しかし、その時主人が言ったのです「これ以上家族を失うのはいやだ。生きていてくれ。」その時は解らなかったのですが,私の体に上の子の峻がしがみつき、私を押さえようとしていた、と言う話しをあとで聞かされました。白い箱に入ってしまった祥子を首からかけてもらった時、事故後はじめて口からの出血を気にすることなく、思いっきり祥子を胸に抱いたのです。まだほんのりと暖かく、生きている祥子を抱いているようでした。

事故は過去に糖尿病で何度か意識を失ったことのある加害者の運転する車が集団下校中の小学生の列に突っ込み、娘を直撃し死亡させ、もう一人の男子生徒に怪我を負わせたものでした。当然きちんと罰せられるものだと思っておりました。ところが、事故から一年半後、私どもに何の連絡もないまま不起訴で終わっていたのです。なんの落ち度もない娘が殺されたにもかかわらず、加害者はなんの罪にも問われなかったのです。信じられませんでした。娘の無念を晴らし、きちんと加害者の犯した罪を裁いてもらう為の、私どもの新たな戦いがそこから始まったのです。

ここからの話しは、またなんらかの形で伝えられたらと思います。今回は最後まで私の話を読んでくださってありがとうございました。

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「その時から」  久保田由枝子

平成10年3月23日午前1時5分。それまで私の家族は、それぞれ労り合い、仲良く、笑いに満ちあふれた日々を送り、前向きに生きていたのに…。すべてこの時から崩れさってしまった。再び戻ることができない。

主人は息子が大学時代の頃、「一人で生きる力をつけてこい」と送り出した。それに息子は応え、たくましく成長した。ワンダーフォーゲル部に所属し、南・北アルプスを縦走したり、また、北海道から沖縄まで日本の各地を自転車でツーリングを重ねていた。心身ともに健康に育っていた。いつも笑顔のたえない息子は、友人も多く、親戚からも可愛がられていた。老人などの弱者に対して優しく、時には体を張って守ってあげたりして、感謝されたことも多かった。そんな息子を家族は誇りに思っていた。

最愛の息子は、新潟県塩沢町の町道脇で友人と立ち話中、飲酒運転の車に17メートルも飛ばされ亡くなってしまった。23歳だった。深夜、警察から連絡を受けて、現地に行き、やっとのことで息子に会うことができたが、いつもの優しい顔には包帯が巻かれ、血が滲み出ていた。無言の息子をわが家に連れて帰らなければならないということは、体験した人しか理解できない、大変辛く悲しいことだった。

事故の一瞬、避けられない状況の中で息子は何を思ったか。想像もできない恐怖を感じながら亡くなってしまったことを考えると、私は精神的に不安定になり、涙を流すことが度々ある。私の年老いた父は、最愛の孫を亡くし、一時は心臓も患い入院をした。「今までの人生の中でこんなに辛い、ショックなことはなかった」と話していた。

イラスト:文房具

息子が二度と使うことがない数々の品物、洋服、がらんとした息子の部屋。そして、街中で山登りへ行く人、ツーリングをしている人を見かけると、息子の思いにつながり、涙が流れてくる。息子は、人生の目的を持ち、充実した生き方を楽しんでいたのに…。生きることを突然中断され、何故そうなってしまったのかと悔やんでいると思うとかわいそうでならない。

家族も私と同様、苦しさに耐え、息子の分まで頑張っている。さらに、被害者は家族だけではなく、親戚、友人も同じ悲しみ、悔しさを感じている。息子に関わった一人ひとりの生き方まで変えるような、この犯罪を起こした加害者を私は絶対に許すことはできません。


犯罪者である加害者は、いつかはその家族の元に戻ってきます。しかし、私たちの息子は家族の元には戻ってきません。私たち家族は、この重荷を背負い、一生心が晴れることがないのです。

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「ありがとう  翼君」  山本泰子

平成11年11月25日学校からの帰宅途中、当時17歳の息子を飲酒運転を繰り返していた加害者に奪われました。二年の月日が過ぎようとしているころ、息子がよく通っていたヘアースタジオの先生が、私達にお手紙をくださいました。月日が経った今でも、心の傷が癒されない私達にとって、そのお手紙は心の支えとなりました。そのお手紙を紹介します。

「おばちゃん、カッコよく切って!!」これが、当店に髪を切りに来た翼君の口ぐせでした。常に身の回りには、気をつかい、ヘアースタイルにも注文が多く、とってもおしゃれな子供でした。無口になる年頃なのに、学校の事、バスケットの事、時には恋愛の事まで、よく話をしてくれました。

そんな翼君との出会いは、私の息子が中学校に入学して同じバスケット部に入部してからです。部活から帰って来た息子が、「とっても上手な先輩がいる、どこのポジションを守らせても上手だけど、特にガードはどんな人が攻めて行っても、負けない強さを持っている。」と、やけに興奮ぎみに話していたのを覚えています。常に翼君は、リーダー的存在でチームをまとめ、後輩の面倒見がよく、運動神経も優れていました。息子は一人っ子で、常に気に掛けてくれる翼君に対して、兄の様な気持ちでしたっておりました。

それなのに、あの突然の事故

あんなに運動神経が優れて、咄嗟の判断力、瞬発力も人一倍あるのに、何で車を避け切る事ができなかったのだろうか?よっぽど音も無く突然に、もの凄いスピードで近づいて来たのだろうか?それとも、人なつっこくて、気さくな性格があだになり、知っている人かな?と油断して、まさか、自分に追突するなんて考えもしなかったのだろうか?

あんなに、良い子だったのに、あんなに、優しい子だったのに、なぜ?どうして?あの運転手が飲酒さえしていなければ、翼君は短い生涯で終わる事は無かったのに…色んな思いが頭の中を駆け巡りました。柩の中に眠っている翼君の顔は、私の店に髪を切りに来ていた、カッコよくて、おしゃれな翼君の顔ではなかったのです。まったく別人の様で、あまりにも残酷に変わりはてた顔は、私の脳裏にやきついてしまったのです。

イラスト:花

そのお通夜の夜、私は夢を見ました。他人は信じてくれないかもしれませんが、私の夢の中にでてきた翼君は、こう言ったのです。「おばちゃん、オレはあんな顔じゃない、カッコよかった顔を忘れないで!!」

その日からです。私は、努めて、翼君のあの笑顔を思い出す努力をしています。我が子を突然に亡くした親の本当の辛さ、苦しみは、ご両親にしか解らないでしょうが、年頃の近い子供をもつ母として、これがもし自分の子供だったらと思い、いてもたってもいられず、この気持を忘れないうちにと思って、ペンを取りました。無謀で、悪質な交通事故を無くそうと、日々活動している家族の方々のお陰で、少しづつ国も動き始めました。微力ながらも力になろうと思っていますが、反対に力を頂いている気がします。


翼君の事故から、月日が経った今、翼君が亡くした尊い命は、今でも周りの子供達の中に受けつがれています。
「お酒を飲んだら車を運転するな」「翼君の事を忘れたのか」と、自分を戒めながら、ハンドルを持っている子供達がいます。どうぞ、これからも皆様お体を大切にして、先に天国に飛び立った息子達の分まで、精一杯生きてください。

そして、「ありがとう  翼君」

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