栄光と転落 ‐甘い蕾はソース味‐ 私は、神奈川県丸々市の一戸建てに妻と二人で住んでいた。 長年、証券会社に勤めていたが、五年前に定年を迎え、退職している。今年で六十五歳になる。 子供は、娘が二人いたが、どちらも何年か前に結婚して家を出た。 長女には子供も生まれ、たまに家族で遊びに来てくれる。 夫婦仲も悪くなく、子供達も手を離れ、悠々自適な第二の人生、我ながら理想的な老後を迎えていると思っていた。 しかし、今はワンルームの賃貸アパートでカップ焼きそばを啜っている。 今のカップ麺はすごい。 全国各地の有名店がカップ麺になっている! この年になっても、世界は新たな発見に満ちている!・・・ 無理やり前向きなことを考えても、すぐに惨めさが襲ってくる。 三か月前のことだ、魔がさしたとしか言いようがないが、私は、全てを失うような悪魔の罠に掛かってしまった・・・。 退職してから、趣味といえばたまに仲間内で行くゴルフぐらいだ。 元同僚や、まだ現役で働いている同僚らと一緒にラウンドするのだが、その日、コースを回り終えてからそのままそのメンバーで酒を飲みに行った。 その席で元同僚で同じ年のAが時折ニヤニヤしながらスマートフォンを眺めているのが気になった。 「なんだA、いい歳してスマホゲームにでも夢中になっているのか?」 そう尋ねると、いい具合に酒が入り、赤ら顔となったAがニヤニヤ顔をさらに深め、 「実はな、マッチングアプリで知り合った女の子と仲良くなってな、今度会う約束をしたんだ。妻と離婚してからもう大分経つが、俺もまだまだ捨てたもんじゃないな。見てみろよ、俺より三十近く若い子なんだ。」 そう言ってAが見せてきたスマホの画面には、三十歳代くらいの綺麗な女性が笑顔で映っていた。 私は、顔をしかめながら 「お前、騙されているんじゃないのか?俺やお前みたいな六十過ぎたおっさんをこんなきれいな人が相手するわけないだろう。」 と、言ってやった。 しかしAは 「おいおい、今は多様性の時代だぞ、年齢なんか関係あるか。世の中にはおっさんが好きだって子はいっぱいいるんだ。この先、見飽きたような仲間とゴルフだけして退職金を持て余すようなら、ちょっと冒険してみたっていいだろう? 見てみろ、このアプリだ。お前もやってみろよ。」 そう言って、私のスマホにAが使っているマッチングアプリのダウンロード用のメールを送ってきた。 「馬鹿言うな、妻にばれたら追い出されちまう。それに、これから孫が高校やら大学やらで色々入用になるんだ。女に金を使っている余裕は無いよ。」 私はそう言って、ハイボールを喉に流し込んだ。 Aは「ふーん」と気のない返事をしながら、スマホの中の美女に夢中でメッセージを送っているようだった。 それから数週間、いつも通りの平穏な日々を送りながら、内心Aを羨んでいる自分がいた。 今の生活にも、妻にも不満があるわけじゃない。 ただ、あの飲み会で、いつもより若く見えたAの笑った顔と、『冒険』という言葉が、何度も私の頭に浮かんでは消えていた。 その時の私は、刺激を求めてしまっていたのだろう・・・。 気づけば、妻の留守の間に、Aが言っていたマッチングアプリをダウンロードしていた。 マッチングアプリに自分の情報を登録してから数時間後には、数件のメッセージが届いた。 ほとんどが、いわゆる『パパ活』を匂わすようなメールであったが、一件だけ気になるメッセージがあった。 X子という三十代後半の女性で、夫が事故で他界し、いわゆる未亡人だそうだ。 普段は都内のオフィスで働いているそうだが、子供はおらず、職場でのイメージもあるためこういったアプリで気の置けない相手を探しているらしい。 ・・・胡散臭い。 そもそも、暇を持て余し、出会いを求める未亡人など、安い三文小説やお色気シーンが売りの2時間ドラマ以外で見たことがない。 最初は、そう思うだけの分別が私にはあった。 しかし、日常とは違う、ちょっとした罪悪感による高揚と、せっかくダウンロードしたのだから一回くらいは、という気持ちで返信してみた。 その後の私は、正直、思い出すのも恥ずかしいくらい、舞い上がってしまった。 X子とは、SNSで連絡を取り合うようになった。私が正直に妻帯者であることを伝えると 『あなたの家庭を壊したくはない』 と匿名性の高いSNSを紹介され、それを使ってやり取りをするようになったのだ。 妻に隠れて、女性と秘密のやり取りをする。 そのスリルと快感に私はすっかり参っていた。 また、一度送ってくれたX子の写真は、正にバリバリ働くキャリアウーマン然としていて、私が想像していたより溌剌としており、魅力的に映った(正直、美人だった)。 そして、社会の第一線で働いている女性とのやり取りは引退して暇を持て余している私にとって、とても楽しいものだった。 数週間のやり取りをしているうちに、最初に抱いていたX子に対する疑いは、すっかり忘れてしまっていた。 そして、当然のことながら、メッセージのやり取りだけでは満足できず、X子に会いたいと、そう思うようになってしまっていた。 しかし、相手は私より二回りも年下だし、証券マンとして働いていたころの私は、女性は向こうから寄ってきたという多少過去の自分を美化したプライドが邪魔をして、X子に対し一線を引いた態度しか取れずにいた。 そんな中、X子からこんな誘いがあった。 『実は、海外で投資家をしている友人がいるの。彼は独自のコネを使って海外企業をメインとした投資をしているのだけれど、仲間内の投資の面倒も見てくれているの。 あなたは、元証券マンということだし、目が利くでしょう?私も、彼には大分稼がせてもらっているのだけれど、あなたもどうかしら。 資料を送るから見てみれば?もし興味があるのなら、私が間に入って、彼にあなたの投資資金を送れるわよ。』 この時の私は、間違いなく正気ではなかった。 なかったと思いたい。 X子と私の間に突然現れた別の男の存在、しかも、私が今までX子に対して自慢してきた『投資』という舞台。 私は、年甲斐もなくムキになった。 X子からダウンロードするよう言われた投資アプリの内容は、第一線を離れて久しい私には、ぴんと来ない部分もあったが、手堅いものに見えた。 何より、私が乗り気な態度をした時の、X子のうれしそうな反応と、『資金が貯まった時に二人で会うためのセカンドハウスを』等という甘い夢物語に、私は、気付けばX子の指定する口座に十回にわたって総額約三千万円という額を振り込んでしまった。 その金の中には、老後を不自由なく過ごすために手を付けていなかった退職金も含んでいた。 今思えば、X子は狡猾だった。 最初に百万円を振り込んだ後、数日おきに投資アプリを開くと、私の降り込んだ資金が順調に増えているように見せていた。 また、必ずネットバンキングを利用するよう言ってきたのは、金融機関で警察に通報されないようにするためだろう。 何より、最初の振り込みから一週間後、利益分として五万円がX子から私の口座に振り込まれた。 自分の口座に予想外の収入があったことで、さらに私は有頂天になっていた。 私は、X子に言われるがまま振り込みを繰り返し、一か月が経ったころ、X子に 「そろそろ金を引き出したい」 とメッセージを送ると 『今引き出すと、高額の手数料が掛かってしまう。もっと資金を振り込んでからの方が損をしないわよ。』 と言われ、私の振込額が総額約三千万円になるまで振り込みを続けた。 そして、振込額が三千万円に達し、利益としてアプリの画面に表示されている約五百万円を引き出したいと、X子にメッセージを送った。 X子と一切連絡が取れなくなった。 そもそも、X子がダウンロードするよう言ってきた投資アプリも含め、すべての話が全くの嘘、出鱈目だったのだ。 X子などという人間は、この世にいなかったのだ。 その後、警察に相談に行った。 妻と、娘たちにも話した。 話はしたが、現実味が無かった。 私は、家にいられなかった。 当然だ。妻と二人で生活するための老後の資金、成長する孫たちのための蓄えを私の馬鹿な浮気心で失くしたのだから。 家を出てから、妻から連絡はない。 完全に愛想を尽かされたのだろう。 娘は、時折、私を心配する連絡をくれる。 妻とよく話し合い、帰ってはどうかと。 しかし、私はもう妻に合わせる顔はない、その勇気も資格もないと思っている。 ここで、カップ焼きそばを啜っているのがお似合いだ。 冷蔵庫の酒が切れている。 私は、近所のコンビニに行くため、上着を着て玄関を出た。 三月とはいえ、午後九時を回った夜の風は冷たい。 私は肩をすぼめながら歩く。 古い住宅街の路地は、街灯も少なく薄暗い。 先の見通せないこの路地は、私のこの先の人生を暗示している気がした。