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 横浜水上警察署の沿革 横浜水上警察署誕生までの道のり
 明治維新における警察制度の礎
 嘉永6年(1853)ペリーが浦賀に来航、幕府の「打ち沈め線」を突破して本牧沖に停泊し近海の測量をはじめた。
 言い知れぬ住民の不安に対し、その時の内海の警備には肥後藩細川越中守の家士が本牧警備についていた。

 安政元年(1854)1月黒船が再渡来(ペリー来航)し、横浜村の海岸において日米和親条約が締結(いわゆる神奈川条約)され、外国人との接触を持つようになると幕府の不安をよそに「黒船見物」とばかりに外国船に接近したり、密商・密航を企てる者も出るようになってきた。

 このことから安政2年(1855)4月肥後藩の手による海防は十分ではないと言う理由で、伊予松山藩松平隠岐守が海上防衛を命じられ、7月神奈川奉行とはかり運上御用船を設け、もっぱら横浜港内の警戒に当たらさせた。
 御用船は船10隻をもってこれにあて、横浜の漁夫勘九郎、九蔵の両名に水主頭取りを命じ、水夫30名に運上所北門脇に溜所を設けて外国船の出入りを監視させた。

 船の出入りごとに逐一運上所に注進させ、入り船のあったときは役人3人、通詞1人、下番2人を、その船に派遣して尋問させ密商の防止を図った。

 安政6年(1859)横浜が開港し幕府は警吏として上番、下番及び同心を置き各役所の警戒勤務の当たらせた。警戒の拠点は、番所7か所、領事宿所4か所、商館箱番所5か所、市内各所勤番所、関門番所で、その形態は現在の交番勤務と相通じるものがあり、明治維新の新警察制度に影響を与えた。

 警察制度機構の確立と横浜水上警察署の誕生
 元治元年(1864)3月神奈川奉行は、横浜裁判所となり、更に神奈川裁判所と改称され4月20日、裁判所総監督東久世中將通禧が、奉行水野若狭守、同依田伊勢守より政務を引継ぎ、御用出役として警衛隊を編成し、港内の警衛にあて、各関門、番所、及び近郊町村を巡邏させた。 その際イギリス波止場に、水上見張り所が設置された。

 これが水上警察署の始まりである。

 明治5年(1872)海上においては外国の入港船が多くなるに従い、港内碇停船に遊女、密商、密輸等を目的に行き来する者が多くなり、また海賊の出没も増え、「港内碇停船規則」が設けられた。これにより明治6年(1873)3月、邏卒20人を港邏卒にあて、巡邏船を備え、常に港内を巡回警らした。

 警察署の統廃合により、 明治32年(1899)8月1日水上警察署誕生する。


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